「努力は裏切らない」という言葉があるけれど、
それは正しくもあり、間違っているような気もする。
確かに、何かを成し遂げようとした時に、それに向かって必死に頑張った過程は無駄ではない。
でも、結果ダメだったら、それまで努力してきた時間は本当に価値があったといるのだろうあ?
その時間を他に費やした方がよかったのではないだろうか?
人には簡単に「その努力無駄だじゃないよ!絶対、将来役に立つよ!だって頑張ったじゃん!」
とそんな風に言えるけど、いざ自分のことになったらどうだろうか?
それ心から言える?
ただの慰めだったり強がりだったりしない?
努力こそが重要なものも確かにある。
でも世の中には結果が全てだってこともたくさんある。
例えば資格試験。
弁護士資格を目指して5年資格浪人をしたとしよう。
今年は!今年こそは!と思って毎年受験するが、結局受からなかったよしよう。
年齢も30歳がもうすぐに迫ってきていて、もうこれ以上資格浪人はできない。
大学時代の友人たちはもう弁護士になっている。
高校や中学の友人たちはもう社会人として何年も経験を積み、家庭をもってパパやママになっている。
もう1年浪人して弁護士資格に挑戦するなら今までの勉強してきた時間と努力は無駄にならないだろう。
でもこれでもう弁護士をあきらめるとしたら?
他の道を目指すとしたら?
(司法書士になるなどの同じ法律系の道なら無駄にはならないけど)
そこでも「努力は裏切らない」。
それを自分に言えるのだろうか?
今までの時間は自分にとって必要な時間だったのだろうか?
もっと早くあきらめて他の道を探していれば、今頃こんな何もない無職の資格浪人ではなく30歳前のそれなりの人生を送れていたのではないだろうか?
そんな風に自分を責めてしまうのではないかと思う。
世の中には努力の過程が大切なものもたくさんあるけど、
結果が全てというようなものもたくさんある。
悲しいけど、結果が出なければ何にもならないものもたくさんあるのだ。
努力してもかなわないものはかなわない。
ただ努力したという過程は残る。
自分自身に問いかけて、「私はやれるだけのことをした」と、自信をもって言えるなら、その結果はきっと自分にとって正しい結果なのだと。
きっと、「そっちじゃない。あなたの進むべき道はそこじゃない。」とあえて天から教えられているのだと思うのだ。
例えば高校受験や大学受験。
泣きながら毎晩のように勉強したが第一志望に合格できなかったとしよう。
それは本当に悔しいことだろうけど、
でも自分自身に問いかけて、「私はやれるだけのことをした」と自信をもって言えたなら、
きっと自分にとって最善の学校は第一志望の学校ではなく、これから行こうとしている第2志望の学校なのだ。
第一志望の学校に行ったら、もしかしたらいじめられていたかもしれない。
学びたいと思っていた分野が本当はあまり興味がもてない分野だったのかもしれない。
第2志望だった学校こそが将来の方向を決める重要な出会いのある場所だったということはあるのだ。
「人間万事塞翁が馬」
良くないと思ったことが後になるといいことだったというのは本当によくあることだ。
ただ、努力もしないで結果が出なかったとしてそれをこっちが正解だったというのはあまりにもずうずうしい。
それはあくまでも「私はやれるだけのことをした」と自分に言えるだけの努力をした場合の話だ。
「努力は無駄にはならない」
かどうかはわからないけど、
「やれるだけのことをした」という自分に対する自信はその結果がどっちに転んでも、それが正解だと言える自信につながる
と私は思う。
だからこそ、ストイックなほどに、「やれるだけのこと」をやる努力はしていかないといけないと思う。
自分が頑張ったかどうかなんて、自分に聞けばすぐにわかるから。
自分に恥ずかしくない、そんな風にいきたいなと思うのである。